みつからない

お題:埠頭/港/ふーぎ一松十四松小説

 遠岸、光彩きらめくガントリークレーン群を背にして、岸壁の下、夏パーカー姿の一松は複雑に組み合った消波ブロックから海面を覗き込んでいる。その足元へと暗く打ち寄せる波に刺したタモ網は、今回も何も得ることはなかったが、彼はもはやため息もつかなかった。一人の無聊の慰めに、防水のカンテラと一緒に腰に下げた携帯ラジオは流しっぱなしで、スピーカーから流れる音声はトーク番組から夜のニュースへと移っていたが、連休中日、全国で相次いだ水難事故の特報も、一松の意識にはほとんど上らない。
 足元を確かめ終えた一松は次のブロックに手をかける。LEDカンテラの光が揺れ、消波ブロックの連なりの中に光が落ち込んだ。フナムシか、殻のある多足の影が一瞬ちらつく照明の輪に入り、だが思いがけないほどの素早さでそれはコンクリートの影へと這いこんでゆく。そうしてしまえばもはや姿は見えず、だが、何かが動き回っている、そんな気配がだけがひっそりと残る。無数の影の中で動くものの気配を覆うように、一松が伝う消波ブロックの底からは、ひたひたと海水が波打つ音が昇る。光の届かない程足元、複雑にぶつかり合う波の音は意味の取れぬ言葉の連なりのようでもあり、夜の埠頭の足元はまるで人の世界ではないようだった。
 夜風が一際強く海から吹き、波立つ海面に痕を残した。海から吹く風には生ぬるくも涼があり、むっとする潮の臭いを伴って海の大気が一松の薄いパーカーの裾から忍び入る。海風の湿度と臭気は夏の気温の中ではあまりにも重たく、呼吸するたびに己の気道に塩が析出するのではないか、と一松は妄想した。濁った肉色の臓器の奥で、立方体をした塩の結晶が張り付き、じゃりじゃりと増え肥えてゆく。不快な妄想だった。足元を確かめようと視線を落とせば、波打ち際、藻を絡めながらもびっしりと張り付いたフジツボが奇妙に白く目についた。
 眉間にしわが寄るのを感じながら、一松は映像として結ばれた肉と塩を意識から振り払う。長くの作業でかいた汗はとっくに飛んで、名残りの塩が潮風と一緒になって肌に結晶化しているようだった。こんな妄想が生まれるのも、そのせいに違いない、そんな風に一松の思考は己を合理化した。
 背後、ざりざりとコンクリートを擦る音がしたように彼が思ったのは、そんな時である。柔らかい靴底で消波ブロックの表面を擦れば、きっとそんな音になる。そういう種類の音だった。その音の源は少しずつ近づいてくる。
 背後に来る。来た。
 風が僅かに和らいだ。
 何かじっと重たい気配が一松の背後にいる。
 一松は振り返らない。ただ、足元の黒く波立つ海面を覗き込んでいる。先日の荒天の名残で、薄汚れたプラスチックごみや、ぶっつりと千切れた海藻の塊といったものがどよどよと漂うのがLEDライトの光の中に浮かんだ。だが、一松が探しているのはそんなものではなかった。
「兄さ——ん、なんか釣れたァ——————?」
 背後の気配が口を開いた。
 それは一松の耳に馴染んだ声で、この夜の海辺では場違いなほどに明朗だった。
 一松は目じりが苛立たしく震える自分を無視する。
「全然」
 一松は振り返ることなく答えた。ここへ十四松がやってきたということに、一松は多少ならず苛立っていたが、納得がないわけでもなかった。
 だから一松は海面から目を上げるようなことはせず、海中、消波ブロックの影を一松はタモ網で探り続けた。何かが重く引っ張るような感覚に網を引き揚げてみれば、引きちぎれるような感覚と共にタモ網の抵抗が急激に抜けた。カンテラの光の中、海水を滴らせるタモ網には何もかかっておらず、ただその柄に黒っぽい海藻が絡みついているだけだった。
 一松は舌打ちする。
 一方、背後の気配は首をかしげたようだった。
「兄さん飽きねェ————ね!」
「別に、お前が手伝ってくれていいんだけど」
 つっけんどんに返した一松の言葉に、綻びるような気配が生まれた。
 一歩を踏む、そんな気配の近づき。
 いやあ、と置いた枕には笑みがあり、近づいた分だけ聞き取りやすくなった弟の声は、理解しがたい僅かな明らみをもって一松の耳に届いた。
「どっちかってーとォ。一松兄さんがこっちくる方が早いっすよ」
「……そういう訳にも、行かないだろ」
 一松は再び海の中にタモ網を入れた。跳ねた水に、コンクリートの上を何かが這いずるような気配があった。長い触角の影がちらりとコンクリートの肌を撫でる。
 海水の抵抗は強く、片腕で体を支えての探索には海の中を掻きまわしながら、一松は言葉を続けた。
「お前についてってやる訳にはいかないし」
「へえ? なぁーんでェ?」
 十四松が首をかしげる気配があった。顔が見えずとも、声の調子でその様子が目に浮かんでしまうのが厄介だった。
 一松は苛立たし気に眉をひそめ、一度二度と頭を振る。
「だってお前さ、……いかなきゃ駄目だろ」
「ン—————」
 背後の気配は言葉を選んでいる。
 あの妙に丸っこい腕つきで腕組みでもして、すこし頭上を見るような、そういう姿勢をしているのに違いない。十四松のボディランゲージは、本人の言葉以上に明快だから。一松にはよくわかる。
 足元で大きく波が打ち、水がたゆたう重い音がした。木の枝でも引っかかっているのか、ブロックを擦る高音が波のリズムに連なった。
 流しっぱなしのラジオの声よりも、海の音の方が雄弁に聞こえるのは、夜という時間のせいだけなのか、一松には図りかねる。
 唸っていた弟は、やがて、でもねえ、と何に対するものか分からない接続詞を置いた。
「ぼくは兄さんとじゃないといかないっすよォ」
「じゃあお前が早くこっちに来れば」
「そういうわけじゃ、ねぇンすけどねえ」
 歯切れ悪く弟は笑い、言葉を切った。
 一松もそれ以上は切り込まない。
 すると弟は黙り込み、だが、気配が立ち去ることはなかった。
 十四松は消波ブロックの上に座り込んだ、一松はそう思う。
 子どものような仕草で足を僅かに揺らして、けれど絶対にスリッパを落とさない、そういういつもの十四松が、想像するまでもなくそこにある。
 足を揺らすなよ、とかワカメ拾うのはやめとけ、とか、反射的に思い浮かぶ言葉の数々を、一松はすべて無視した。
 背後の弟のことばかりを考えながら、一松は夜の海を何度も探る。
 今度引っかかったのは靴だった。形を見るに右足用の紫色のクロックス、海辺を歩くには危ないそれは海藻をもつれさせて波に乗り、ブロックを何度も小突いている。探しているのはこれでもない。薄く傷の浮いたプラスチック靴を見送って、一松は更に海を覗き込む。
 次のブロックに移ろうとして、一松はふと足を止めた。
 背後の十四松は動かない。
 それが、一松にはひどく恐ろしかった。
 僅かな躊躇い。
 ねえ、と呼んだ声は、夜の風の中で酷く心細く響いた。
 なあに、と返す声は、一松が離れた分だけ遠く、それでも常の朗らかさを保っていた。
 いつものように。
 いつもなんて、もうないくせに。
 声が震えるのを、一松はとうとう堪えられない。
「……帰ろうよ、十四松。お前、こんなところじゃ、こんなところじゃ寒いだろ、」
「そうできたらいいんだけど。そうもいかないんだよ、兄さん」
 十四松の声が、初めて明瞭に曇った。
 とっくに声変わりをした己たちであったのに、その時一松は弟の声の中に、幼い頃の十四松の声を聴いたように思った。
 少しだけ気が弱いところがあって、すばしっこい兄弟たちの割を食う弟。彼が、己の得た理不尽を諦めて飲み込む時のような響き。
 それは年月の中で成長という名の元に失われて、あの明朗さに、暴力的なまでの前向きさにとってかわられたようだったのに。
「早く、出て来いよ十四松。お前、どこにいんだよ、ちゃんと浮かんで来いよ」
 タモ網を知らず強く握りしめ、一松は振り絞るように呟いた。
 冷たかったろうか。苦しかったろうか。
 思い出してしまえば、胸の奥でこみ上げるものを抑えきれはしなかった。どうしようもない兄弟だと、そのように互いに皮肉ってみせていたとしても。このような不在を望んだことはなかった。
 弟の声は帰らない。気配はそこにあっても、十四松のいらえはない。
 まだ、帰らないのだ。帰れないのだ。
 一松には分かっている。
 今はもう使われていないあの岸壁で、高波にさらわれて十四松は海に落ちた。
 彼の体はまだ上がっていない。海のどこかを漂っている、あるいは打ち上げられている。
 ならば探してやらねばならない。
 一松はのろのろとタモ網を海に差し込んだ。海を抉る水音が深く夜に落ち、LEDの青白い光がゆらゆらと海べりを這う。
 十四松の気配が見つめているのを感じながら、一松は機械のように一連の作業を続けてゆく。

 ……だから一松は聞き逃した。
 彼の腰で続くラジオニュース、その中で呼ばれた、耳に良くなじんだはずの二つの名前を。
 ——次のニュースです。東京都、赤塚埠頭で海釣りをしていた若い男性二人が高波にさらわれ、行方不明となっています。
 ——行方不明となったのは都内在住の松野一松さん、松野十四松さん……
 明かりの届かぬ消波ブロックの底には、しなびたゴカイをつけたままの二本の釣り竿がもつれあうように落ちている。潮で洗われ、乾いたその表面には、薄く塩が張り、消波ブロックに挟まった流木の一種とでもいうかのように海の微細な生き物たちを歩かせている。
 黒く沈んだ海はとどろに波音を立て、海鳴りは人の声のように陸へと渡る。
 だが、海は何一つとしてその腹のうちから返すことはない。
 消波ブロックの一帯では、なお白んだ光が動いている。

<END>

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