非常階段

お題:非常階段/くろひつじおそ松カラ松小説

 そこには、薄暗い路地裏が広がっているだけだった。
 コンクリートブロックを積み上げた塀に、ところどころに小石や砂が転がっているだけのアスファルトの地面。猫一匹すら見当たらない。
「……おそ松」
 追いついたカラ松に肩を叩かれて、おそ松はハッと我に返った。
「あったか?」
「……いや。なにもない」
「そうか……」
 カラ松は同じようにその路地裏を少し見つめてから、帰ろう、と促すようにおそ松の肩をもう一度叩いた。

 きっかけは、家のベランダでタバコを吸っている時だった。
 松野家は一軒家で、ビルやホテルの立ち並ぶ街なかに、まるで小さな谷底のように建っていた。そのため、ベランダからは色々なものを見ることができた。
 そこのビルの窓には、窓際においやられたサラリーマンが暇そうに頬杖をついているのが見えたり、そのビルの隣の一階にあるカフェでカップルが痴話喧嘩している様子が見えたり、他人の人生の一部を楽しめるのだ。
 その日もいつものように眺めている風景の中で、小さな違和感としてそれを見つけてしまった。
 少し離れた場所に建つビルの裏側。
 こげ茶色の非常階段がジグザグに這い上がっている場所の、真ん中より少し上ぐらいの踊り場に、じっと佇むようにある黒い影。
 ーーああ、あんなところに非常階段なんてあったんだ。
 いつも見ている風景でも、意識しないと気付かないということはよくある。
 非常階段なんて利用する者の方が少ないから、普段見ない影がつい目についてしまったのだろう。
 あんな場所で、何をしているのだろう。
 佇む影は小さく揺れているようにも見える。
 何気なく目についてしまって、そんなことを考えた、次の瞬間、
「えっ……」
 思わず声が出た。
 非常階段の踊り場で佇んでいたその黒い影は、柵を乗り越えて、落ちた。
「え、ええ~??!!ウソだろぉ?!」
 咥えていたタバコを落としたのも構わずに、おそ松は驚いてベランダの柵から身を乗り出してそちらを凝視した。
 確かにいたはずの、非常階段の影がいなくなっている。
 落ちた。確かに、落ちた。
 ゆらゆらと揺れているように見えたのは、柵を乗り越えていたからか。
 離れているからどの程度かは分からないが、それなりの高さから落ちている。
「やべぇ!どうしよう!!」
 おそ松が慌てて室内に戻ると、部屋で一人鏡を見つめるカラ松がおそ松のただならぬ様子に驚いて声をかけた。
「ブラザー?どうしたんだ?」
「ひ、人が落ちた!」
「なに?」
「ビルの階段から!人が落ちたの!!」
「なんだって?」
 二人は急いで家を飛び出し、そのビルへと向かう。
 人通りの少ない場所だし、もし行って間に合うならば助けないと。
 家からはそれなりの距離はあったが、急げばなんとかなる気がした。
 しかし。
「……え?」
 現場と思われる場所に着いて愕然とした。
 そこは、なんでもない路地裏で、何もなかった。
 それどころか、人影が落ちたと思われるビル自体、ひび割れの壁に蔦が這い、敷地内は雑草が生い茂るほどの廃ビルだったのだ。
 確かに、人が立ち入ることなど無さそうな場所ほど自殺にはもってこいだ。
 しかし、何もない。
 人が侵入し、非常階段を上り、そこから落ちた何者かは、いなかった。
「……本当に見たのか?」
 訝しむ様な声で、何もない路地裏を見つめるおそ松にカラ松が聞く。
「……見間違い、だったのかな」
 きっと、たぶん、そうだ。
 脳裏にははっきりと、階段から落ちていく黒い影が残っている。
 いや、見間違いだ。
 おそ松はかぶりを振り、くるりと回って来た道を戻る。
「……わりぃな、カラ松」
「いや、気にするな」
 カラ松は何もない路地裏を振り返り、非常階段を見上げる。
 確かにあの場所なら、着地点はここだ。
 嫌な雰囲気だな、と心の中で呟いて、とぼとぼと歩く兄の後を追いかけた。

 次の日。
 おそ松がベランダにいるのを見て、カラ松も同じようにベランダに出た。
 柵によりかかるように佇むおそ松は、煙草を咥えて遠くを見つめている。
「ここから見たのか?」
「ああ」
 おそ松の視線の先を追えば、確かに昨日見たビルの非常階段部分が、建物の隙間からよく見えた。
 ここからでは別のビルの陰に隠れて、廃ビルの様子は確かに分からない。
「……気にするなよ」
「……してねーよ」
 そうは言いつつも、視線はそちらを見つめるおそ松が気になった。
 はぁ、と小さなため息をついて、カラ松もタバコを咥える。火をつけて、吐き出した煙をしばらく眺めていると、
「あっ……」
 おそ松が声を上げた。
 慌ててカラ松も非常階段の方へと視線を向けた。
 赤茶色の非常階段の、下の方から、黒い影がゆらゆらと階段を上る影が見える。
 少しずつ、ゆっくりと。
 そうして、真ん中から少し上くらいの位置の踊り場で、影は立ち止まる。しばらくゆらゆら揺れたかと思うと、その影はそこから地面に向かって真っ逆さまに落ちていった。
「……カラ松、お前にも見えた?」
「あ、ああ。……見え、た」
 見えて、しまった。
 おそ松の言葉に、カラ松は歯切れ悪く答える。
「……行こう」
 そう言ったおそ松の口調は、無言でついて来いと言っているようだった。
 無言のおそ松とともに、昨日と同じ場所へ向かう。
 そこには、やはり何もなかった。
 荒廃したビルの裏。薄暗く何もない路地裏があるだけ。
 錆びれて赤茶色に変色した非常階段を見上げ、二人は家路についた。

 それから数日、おそ松とカラ松は毎日のように非常階段から落ちる人影を見つけては、その場へ赴いた。
 きっと、その影は気付いていないのだ。
 だからこそ毎日、あの時間にあの場所で繰り返す。
 そして、よく晴れたある日、おそ松とカラ松がいつものように路地裏に来ると、道脇に花束が置かれていた。
 白いユリとガーベラをまとめた、シンプルで綺麗な花束。
 それをみて、おそ松はあーあ、と踵を返しながら大きく伸びをして
「パチンコでも行こうぜー」
 いつもの調子の声で言った。

 
 それから二人はベランダで煙草を吸う時、その廃ビルの方を少し眺めてから背を向けるようになった。
 そこにいる何かに、ささやかな哀悼を捧げるように。

縦横切替

↑ ページトップへ