鏡界奇譚

お題:オリジナル/詠子一松十四松小説

《鏡界奇譚》

松野一松が高校三年の、夏の出来事だった。
一学期の課程のすべてが終わり夏休みを目前に控えたその日は、午後の授業時間をすべて使用しての大掃除だった。
面倒な清掃作業をふざけながらこなすクラスメイトたちを横目に、一松は元来の性質から真面目に清掃をしていた。
そんな一松を不意に襲った小さな悲劇。
それは、悪意も何もない単なる事故だった。
清掃場所は校内に三箇所ある階段のひとつ。その踊り場には、過去の卒業生が寄贈した大きな鏡が据えられていた。その鏡を、ふざけていたクラスメイトのひとりがちょっとした拍子に割ってしまった。そしてあろうことか、その砕けた破片のいくつかが、たまたま鏡のほど近くにいた一松の右目に飛び込んだ。さらに不運なことに、ごくごく小さなその破片たちは一松の眼球に見事刺さってしまったのだ。
一松の眼球に刺さった破片たちは、刺さった瞬間やその後しばらく続いた激しい痛みとは裏腹、除去するのが難しいと医者に言われるほどに小さなものだった。
不幸中の幸いと言うべきか、刺さった破片はそのどれもが視力の低下は免れないまでも失明に至らしめるような場所からは外れており、一松の右目にはそのまま、小さな鏡の欠片がいくつか居座り続けることとなった。
そして事故から数年が経った今も、それらは時折ごろりとした異物感を一松に与え続けている。

*** ***

夏の風物詩と言えば。海水浴や盆踊り、花火にバーベキューに西瓜割りなど、種々様々な催しが挙げられるだろう。いずれも現代日本の夏の定番と称するに過言ではないものばかりであるが、それらと並んで、恐らくこんなものも挙げられるのではないだろうか。
「おっ、今日マジ怖あんじゃん!観ようぜ!」
夕食後の、居間での団欒のひと時。兄弟たちが揃って各々食後のひと休みをしている中で、テレビのリモコンを片手にテレビ欄を眺めていたおそ松が、不意に嬉々とした声を上げながらテレビの電源を入れた。
「はぁっ?ざっけんな!絶対やだし――ってちょっと、離してよ一松兄さん!」
「ヒヒッ、いぃ~やぁ~でぇ~す。どうせそんな怖くねぇよ。みんなで観ようぜぇ、トッティ~」
「やだぁぁーッ!離してぇぇー!」
タイミング良く――と言っていいのかはなんとも言えないところであるが、ちょうどその時テレビから流れだした、なんとも不安感を煽る短調の旋律。ひどく耳に残るテーマソングと共に始まったのは、視聴者の実体験を元に制作されるタイプの心霊番組だ。
そう、これもひとつの夏の風物詩。所謂、怪談である。
兄弟内で唯一こういった類が一切ダメなトド松以外は、皆揃ってテレビに視線を向ける。一松に首根っこを掴まれて逃げ出せないトド松だけは、おそ松の背に隠れて耳を塞いで丸まっている。
「えー、これホントに心霊写真?」
「どこが顔に見えるんだ……?」
「この辺らしいけど、ただの目の錯覚でしょ、こんなの」
「シミュラクラ現象って言うらしいよ」
「シミそばかす現象!」
「惜しい」
「いや惜しくもないよね」
視聴者の体験を再現したドラマの合間に挟まる心霊写真紹介のコーナーは、どれもありがちなものばかり。怖い怖いと震えているのはトド松だけで、おそ松もカラ松もチョロ松も一松も十四松も、けろりとした顔で番組の内容を一蹴しては笑っている。
そんな番組の中で、一松の興味を引いたのは再現ドラマのひとつだった。
番組も終盤に差し掛かった頃、最後に流された再現ドラマ。
その内容は鏡に纏わる恐怖体験で、よくある都市伝説のひとつ、【合わせ鏡】に端を発するものだった。

――当時学生だった投稿者の学校で、その時流行っていた噂。合わせ鏡の十二番目に、運命の相手が映るという、なんともありふれた話だ。そして、合わせ鏡をする際の注意点として、行うのは深夜二時丁度でなければいけないということと、十三番目は見てはいけないということも、やはりありふれた都市伝説のひとつと言えるだろう。
この投稿者は双子の姉妹の妹で、姉と共に合わせ鏡を実行したらしい。そして投稿者自身には、何も起こらなかった。しかし、姉の方は見てしまったらしい。
運命の人が映るという十二番目の鏡ではなく、見てはいけない十三番目の鏡を。
茫洋と目を見開いて鏡に食い入る姉に投稿者が声を掛けた瞬間、姉は絶叫し、顔が顔がと喚きながら、自らの顔面を掻き毟りだした。寝静まっていた他の家族がその騒ぎに起き出して姉を抑えつけ、翌朝早くに近所の寺に駆け込んだところ、住職は血相を変えて即座にお祓いを行ってくれたらしい。なんでも良くないものに憑かれていて、命の危険であったのだとか。そして姉妹は、ことのあらましを聞いた住職にこっぴどく叱られた、というオチだった。

「女子ってこーゆーのホンット好きだよなぁ」
「たしかに。俺たちが学生の頃にも、何か流行っていなかったか?」
「鏡じゃなくって、こっくりさんみたいなヤツだったと思うけど」
「トッティ!怖いの終わったよ!」
「うう、ありがとう十四松兄さんっ……もう!ホンッット最悪!一松兄さんのぶぁーか!」
「ヒヒッ、お憑かれさん、トッティ」
「今絶ッ対漢字違ったよね!やめてくれる!」
番組中も茶々を入れたりなんだりとなんやかんや喧しかった兄弟たちが、エンディングをBGMに思い思い話し始める。
一松は未だ涙目を引きずる末の弟をからかいながら、こっそりと上三人が交わす学生時代の話に耳を欹てる。学生時代に流行った、オカルトじみた呪(まじな)いやら都市伝説やらエトセトラ。兄らの口々に乗る話は当然ながら一松も耳にしたことのあるものばかりだったが、トド松と実のない言葉の応酬を交わしながら、ふと兄らの話に上がらなかったものを思い出す。
正確に言えば、それは先の心霊番組で最後に取り上げられた合わせ鏡の話を観た時に脳裏をよぎっていたのだが、兄らの話に上がらなかったことに、おや、と首を傾げる。
それはなんとも有り体な、よくある学校の怪談――所謂、七不思議と言われるもののひとつ。
先の心霊番組の視聴者投稿とよく似た鏡にまつわる話を、自分と違ってそれなりに交友関係を築いていた兄らが知らないなんて、と。

*** ***

深夜。
不意な尿意に睡眠を妨げられて布団を抜けだした一松は、用を足してまた部屋へと戻る道すがら右目に異物感を覚え、もののついでと洗面台に立ち寄った。
高校在学中に負傷した右目が時折発する異物感はどうにもならないものなのだが、気休め程度の点眼薬が処方されていて、そしてその薬は洗面所に置いてある。
草木も眠る丑三つ時。廊下を照らす少し古くなった白熱球のぼんやりとしたオレンジの光が、闇に埋もれる洗面所を薄っすらと照らしていた。
夜目の効く一松は廊下からの明かりだけで充分だろうと洗面所の照明を点けることなく薄闇の中に足を踏み入れ、その向こうにぼうと佇む洗面台に向き合う。
鈍色にも似た薄闇の中、廊下からの明かりを逆光に背負い陰影を濃くした一松の姿が、洗面台の鏡に映り込む。
異常は特にないとわかってはいたが、念のためにと鏡に顔を近付け、右の瞼を指で押し上げてまつげなどの異物がないかと凝らす。
その視界の右側に、一松は奇妙を視た。
一松の背後、廊下と洗面所の境界。すっかり闇に沈んだ洗面所内の死角から今にも這い出そうとしているかのようなヒトの手が、鏡の中に映る右の眼球に映り込んでいた。
鏡に顔を近付けたやや前傾の体勢で右の瞼を押し上げたまま、一松はぴたりと動きを止める。
不可解な奇妙に、一松の思考は刹那ばかり完全にその機能を放棄した。しかしすぐにめまぐるしく動き出した脳の回路は、その奇妙を単なる錯覚だと一蹴し、一松の視線を鏡の中の右目へと誘う。

「――……!」

今度こそ、一松の身体は完全に硬直した。
視線を注いだ鏡の中、そこに映る右の眼球だけに映り込んだヒトの手が、廊下と洗面所の境界から離れ、一松に向かってその指先を伸ばしていた。
ひくり、一松は喉を引き攣らせるが、悲鳴どころか呼気の音すら零れなかった。
身体は、振り返ることはおろか、指先ひとつ動かせず、瞬きのひとつさえできない。
ふつふつと、額や背に、全身に、夏特有の高い気温に由来するものではない汗が噴き出してくる。
視線は、鏡から逸らせない。
視てはいけないと、本能が甲高い警鐘を脳内で打ち鳴らしているというのに、一松の視線はひたりと、鏡の中に映る己の右目に向けられ続けている。
鏡の中の右目に映る手は、獲物に狙いを定めて鎌首を擡げる蛇のように、一松の背後にひそりと在る。本来ならあるはずのその先は、闇に溶けて確認できない。
まずい、まずい、逃げなきゃ、誰か、兄さん、誰か、助けて、やばい、逃げなきゃ。

逃げなきゃ――喰われる。

恐怖に塗り潰された一松の脳裏に、そんな言葉がよぎった、瞬間。

びゅるん、

そんな音が聞こえそうな、正に蛇のような、或いは撓る鞭のような動きをして、一松に狙いを定めていたヒトの手が、闇の中から腕らしきものを引きずり、一松に飛びかかった。
鏡の中の右目に映るそれが一松のうなじに噛み付いた瞬間、ぞっとするような感触をしたナニかに後ろ首を掴まれた感触が一松を襲った。
それは、この夏の夜にはひどく似つかわしくない、ひんやりとした温度だった。
それは、ほどよい弾力となめらかさを持つ、たしかな肉の感触をしていた。

それは、きっと、死人の手の感触だった。

「っ――あああああぁぁぁぁ!!!」

本能的に己の後ろ首を掴むモノの正体を悟った瞬間、一松の喉から悲鳴が迸っていた。だのに身体はこれっぽっちも言うことを聞かず、瞬きも、身じろぎも、後ろ首を掴むモノを振り払うこともできない。
後ろ首を掴むモノの力は凄まじく、みし、と一松の頚椎が不穏に軋む。そしてソレは何故か、前傾姿勢のままの一松を、鏡の方へと押しやろうとしているらしかった。
ぐいぐいと押しやる力に、自由の効かない身体をそれでもなんとか踏ん張って抵抗を試みる。
左手を洗面台の陶器についていたのが不幸中の幸いだと一瞬思ったが、しかしそれが無駄な抵抗であると即座に悟る。運動不足のニートの腕力を嘲笑うかのように、ソレは尋常ではない力でじわじわと、けれど確実に、一松を鏡へ向かって押しやっていく。
やばい、やばい。早くも痺れだした左手と、既に鼻先が触れる距離まで近付いた鏡面に、一松は恐怖と焦燥でパニックに陥っていた。
とうとう鼻先が触れた鏡面が、まるで凪いだ水面に触れた時のように、とぷりと波打つ。しかしそんな奇妙を、今の一松には気にしていられる余裕などなかった。
は、は、と最早呼吸の意味を成していない短く荒い呼吸を繰り返しながら、痺れて限界を訴える腕をそれでも必至に突っ張り続ける。最早一松の鼻はすっかり鏡面の向こうに飲み込まれ、眉や唇などの顔の凸部もじわじわと鏡の向こうへ沈み出している。
このまま鏡の向こうにすべて飲み込まれてしまえば、自分は一体どうなるのだろう。
想像もつかない鏡の向こうに、恐怖は更に肥大する。
後ろ首を掴み鏡へ押しこむ力は、弛まない。
ぶるぶると、唯一の命綱である左腕が限界を訴えて震えている。
全身から噴き出す汗は止まらない。

「っ!」

一瞬のことだった。止まらない汗で濡れた手のひらがずるりと滑る。
まずい、と思った時には既に遅く、耳元でとぷん、と水音に似た音が弾けた。
「っぐ……っ!?」
音が弾けた瞬間、喉元に一瞬の強い圧迫感が襲いかかり、同時に後ろ向きに勢いよく引かれて、その勢いに負けた一松は、気付くと洗面所の床に背中を強か打ち付けていた。
「げほっ!ごほっ、うぇ……っ、」
ほんの一瞬であったが思い切り圧迫された気管は悲鳴を上げて、一松は床に転がったまま激しく噎せ返る。
生理的に浮かんだ涙でぼやける視界に映ったのは、普段ぱっかりと大きく開いている口をぴたりと閉ざして鋭い目をした、すぐ下の弟だった。
「けほっ……じゅう、し、まつ……?」
ひりつく喉で途切れ途切れに弟の名を呼ぶも、十四松は返事をするどころか、廊下と洗面所の境界をひたと睨めつけたまま微動だにしない。
「ダメだよ」
おもむろに、十四松がそんな声を上げる。十四松の視線は、廊下と洗面所の境界から動かない。
「ダメだよ。一松は連れて行かせない。ぼくの、ぼくたちの大事な兄弟は、あげないよ」
いつもの底抜けに明るい、ともすれば喧しすぎるそれとはまったく色の異なる、ひどく冷えきった十四松の声が、夜の静寂にしんとこだまする。
痛む喉をさすりながら身を起こし、十四松の視線を辿って一松も廊下と洗面所の境界――先ほど鏡の中の己の眼球に映っていたあの死人の手が生えていた辺りに視線を向けてみるが、そこにはただ、廊下の明かりが届かずに逆に濃度を増した闇がわだかまっているばかりだ。
十四松の目には、一体何が視えているというのだろうか。
「、十四松。」
もう一度、今度は先よりも幾分マシな声で十四松を呼ぶ。
すれば、一拍の間を空けた後、くるりと十四松は一松へ振り返った。
その顔はすっかり、いつもと同じぱっかりと大きく口を開いたアルカイックスマイルじみたそれに戻っていた。
「一松兄さん!ダイジョーブ?」
言いながら差し伸べられた手に縋り、一松はよっこらと立ち上がる。
「まあ、なんとか……」
「よかった!兄さん、もう《合わせ鏡》しちゃダメっすよ!兄さんの右目、危ないから!」
十四松は変わらず読めない笑顔を湛えたまま、そう言ってパジャマの袖から覗く手を一松へと伸ばし、その手で一松の右目をそっと覆う。
子どものような高い体温を持つその手のぬくもりを受けて一松は、じわりじわりと胸の中に残っていた恐怖が溶け出していくような錯覚を抱く。立ち上がる際に借りたままだったもう一方の手をそろと握り直し、一松は細く深く、息を吐いた。
一松の脳裏には、あの心霊番組をきっかけに思い出した高校時代に耳にした怪談と、それに関連し、且つ今し方の恐怖の原因であろうものが浮かんでいた。

*** ***

一松がそれを耳にしたのは、高校二年の秋頃だったと記憶している。
当時、一松は委員会決めのじゃんけんに敗北した結果として美化委員会というものに所属しており、その日はその委員会の仕事で校内の掲示物の貼り直しや撤去をして回っていた。
割り当てられた二年生の教室前の掲示物を直して回っている際にたまたま聞こえてきた、女子数名の他愛ないおしゃべり。放課後の教室に居残って中身のあるようでまったくない会話に花を咲かせている彼女らのその時の話題は、何がどうしてそこに転がったのかはさっぱりわからないが、とにかくまあ、怪談であった。
「先輩から聞いたんだけど、東階段の踊り場の鏡の噂、ガチらしいよ」
「えっなにそれ、うち知らない」
「あたし知ってる。あれでしょ、幽霊が映るってやつ」
「えーっなにそれ!怖!」
きゃいきゃいと姦しい女子の声は、開け放たれたドアを通り抜けて廊下にいる一松のもとまで容易に届いて、別に聞く気もなかったのに自然と耳に流れ込んできた。
本当に、ありふれた内容だった。決まった時間にその鏡の前に立つとこの世ならざるモノが映るという、使い古されたネタ。話を切り出した女子が重ねた、先輩の先輩が実際に見たらしいという遠い他人の体験談までもが最早テンプレート通りで、一松は剥がれかけた掲示物をリストと照らしあわせて鋲止めし直したり撤去したりと作業をしながら、くだらないと一笑に付し、そんな与太話などその日の夜にはすっかり忘れてしまっていた。
その話を聞いてから数年が経った今日、皮肉にもとんでもない恐怖体験をしたことでやっと思い出したのだ。
ありふれた怪談のネタであったその鏡が、一松の右目に未だ破片を残すあの鏡であることを。

年甲斐もなく十四松と手を繋いで兄弟たちの眠る部屋に戻った一松は、布団の定位置にもぐり込んで思考する。
元々曰く付きだった鏡の破片が入りこんだままの自身の右目。それを鏡に映して覗き込んでしまったことで、合わせ鏡を成立させてしまったのだろうか。
だがこうした行為は、こんな右目になってからというもの、幾度となくやっている。これまでは何ともなかったというのに、何故今日に限ってこんな、わけのわからない恐怖体験に見舞われたのだろう。
無意識に触れたうなじには、あの死人の手に掴まれた感触がありありと残っている。指先が触れると微かに痛むそこを撫で擦りながら、一松はゆるゆると吐息する。
考えたところで答えなど出ないと、一松はわかりきっていた。結局薬を点しそびれた右目がゴロつくのを無理やり意識から外しながら、目を瞑る。
考えても仕方がないことなら、思考を放棄すればいい。十四松の言う通りに、今後二度と己の右目で合わせ鏡を作り上げてしまわないようにすればいいのだ。そんな暴論を胸中で吐き出して、くるりと身体を丸める。
寝入る体勢に入るとどっと疲れが押し寄せてきて、すぐに思考は微睡みの海に飲み込まれ始めた。
とにかく、今は眠ろう。眠って、あの不可解で奇妙な恐怖の時間など忘れてしまおう。

そうして眠りに就いた一松は、翌朝になって十四松以外の兄弟たちに驚かれるほどにくっきりとした手型の青痣がうなじに刻まれていることを、まだ知らない。

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